top of page

 コトタマ復活の歩み

人類史のなかで現代人にとって無くてはならないコトタマ復活までの道筋

コトタマの学問復活に向けての始まりは、物質科学の分野で物質内の先験部分、いわゆる物質の核内の研究に入ってきた頃のことです。

時同じくして、日本の宮中において明治天皇・皇后両陛下・皇后付の書道家である山腰弘道氏により、人の心の分野であるコトタマ学研究が行われたことによります。

明治天皇ご崩御後、コトタマ学研究は大正天皇には伝わらずそのまま山腰弘道氏が継続し、その時より皇室を離れ民間で研究が行なわれることになりました。

 

弘道氏亡き後は、三男山腰明将氏に受け継がれ、明将氏はその身は軍籍にありながら研究を続けられ明生会を発足、その門下生の一人にのちに受け継ぐこととなる小笠原孝次氏がおりました。明将氏不遇の事故によりご逝去、次いで膨大なる資料もすべて消失してしまいました。

門下生であった小笠原孝次氏は後を受け継ぐべく、そのほとんど何もない状態からますます研究に励まれ、多くのことを解明されました。そのご尽力により、コトタマは消滅することなく無事に次の時代に引き継がれました。

島田正路氏は昭和三十七年に小笠原氏に出会い、小笠原氏がご逝去されるまでの二十年間、ご本人いわく薫陶を得られており、小笠原氏がご逝去される少し前には、未確認部分の引き続きの研究という課題とともに、小笠原氏ご本人より直接後を任されました。

​時が経ち小笠原氏からの課題を完了、ご逝去される半年ほど前には、過去そうであったと同じようにコトタマ原理復元を完成されました。

コトタマが隠されて以来、人類最初のコトタマ自覚者です。

こうした復活の任にあたってくださった方々の並々ならぬ努力によって、コトタマは悠久の時をへて、再び人類全ての人の心に完全なる復活を遂げております。

     明治天皇

昭憲皇太后

宮中賢所にあった文書と皇太后が一条(藤原)家からもたらした文献に基づいて、コトタマ言の葉の誠の道の研究に志された最初の人。

宮中賢所にあった文書とは、皇典古事記(日本書紀)であり、これがコトタマ学の原典である。

皇太后が一条家より御興入れの際、嫁入り道具の中にあった和歌三十一文字を作る心得を書いた古書の中にコトタマ布斗麻邇に関する文献が含まれていた。(昔の三十一文字の作法は単に叙事・抒情を三十一文字に表現するだけでなく、その歌の中にコトタマの法則を詠みこむ事によってコトタマ学の勉学の一手段ともした)

明治天皇、皇后両陛下のお歌の中の「言の葉の誠の道」「敷島の道」とは単に和歌の事ではなく、アイウエオ五十音コトタマの学(まなび)のことを言っている。『島田正路氏より』

【 御 製 】
​天地も動かすばかり言の葉の誠の道を極めてしかな
​白雲のよそに求むな世の人の誠の道ぞ敷島の道
【 御 歌 】
敷島の大和言葉を立て貫に織る賎機の音のさやけさ
​人並みに踏むとはすれど言の葉の道の広さに惑ひぬるかな
山腰弘道

書道奨励家なり。旧尾州藩士山腰喜明氏の長男にして、安政三年八月朔日を以て名古屋に生る。九才、藩主の近侍となり、傍ら藩黌明倫堂に於て漢学を修め又、武術を講じ、書道を村井鍬蔵氏に学ぶ。尋ねて京都江戸の間に奔走し、藩主国老の秘密公用を勤め、明治初年勤皇の故を以て賞禄を賜う。同四年英学を修め、翌年名古屋県庁に出仕す。

後浜松、三重、奈良、島根各県に歴任し、同二十一年挙家東京に移り公共事業に尽し、二十三年大日本選書奨励会を設立し毎年上野公園博物館管轄館に展覧会を開き、その第四回後、皇后陛下、皇太子殿下行啓の節御説明の重任に当たる。同四十三年皇太子、同妃殿下御同列行啓を辱うし多年斯道の興隆に力め熱誠を以て稱せらる。

夫人を美志子と呼び、長男利通、三男明将、四男道文の三子家に在り、次男朝克養子繁次郎は分家す。利道氏の婦を八重子と云う。政久、愛子、久徳の三孫あり。『明治時代に発行された紳士録(現代)人名辞典より』

 

​◇

書道神代文字研究家、国文学者でもある。

明治天皇・皇后両陛下と共にコトタマ研究を行い、明治天皇亡き後も研究を続ける。

山腰明将

陸軍少佐。山腰明将氏は明治天皇、皇后、父君弘道氏の言霊学研究を受け継ぎ、身は軍籍にありながら大正・昭和と研究を続け、その集めた学問資料は膨大なものであった。明生会を発足し、門下生には小笠原考次(後に受け継ぐ事に)、高橋健助、小川栄一、斎藤直繁など。

 

常日頃門下生に「私が研究している言霊布斗麻邇の学は元来、日本国の天皇となるお方が勉学習得すべき学問であり、時到れば天皇に復命(かえりごと)する為に勉強しておる。君達に話しても余り意味がない」と言っていた。

昭和十五年、東京水交社に於て、日本の上層部の人々を前にして講演をした。山腰氏の堂々とした話しぶりは、自らの話が天皇に復命するという使命感に満ちていたためであったのでは、と思わせるものがあった。

昭和二十六年山腰氏不遇の裡に逝去。永年にわたっての研究資料も不測の事故で全部消失。『小笠原孝次氏より』

小笠原孝次

▼1903年

 東京都浅草生まれ

▼1922年

 東京商科大学(現在の一橋大学)にてドイツ文学ドイツ哲学を学ぶ

▼1932年

 矢野祐太郎氏(元海軍大佐)および夫人の矢野シン氏と共に『神霊密書』(神霊正典)を編纂

▼1936年

 山腰明將氏(元陸軍少佐)が主催する「明生会」の門下生となり「言霊学」について学ぶ

▼1954年

 「皇学研究所」を創立

▼1963年

 「ヘブライ研究会」を創立

▼1965年

 「ヘブライ研究会」から「第三文明会」にかえ主催

▲1982年

 79歳にて逝去

​◇

山腰明將氏亡き後コトタマ研究を続け、コトタマ学をもとに様々な分野にわたり解説を行なう

【 著 書 】

法華経要義     1959年(S34.7)

第三文明への通路  1964年(S39)英語版あり

・無門関       1967(S42) 

歎異抄講義     1968年(S43)未刊

言霊百神      1968年(S44)英語版あり

大祓祝詞講義    1970年(S45)

世界維新への進発  1975年(S50)

言霊精義      1977年(S52)

言霊開眼      1977年「言霊精義」以降(不明)

島田正路

1925年

 東京都銀座生まれ

1945年

 旧制水戸高校

1963年
 小笠原孝次氏に師事しコトタマ学を学ぶ
1982年
 小笠原氏よりコトタマ学の後継を任される
1988年
 「言霊の会」創立、毎月会報発行
2009年
 5月 コトタマの原理をご自身の心ですべて確認終了
 (コトタマ原理完全復活) 
 12月28日 84歳にて逝去
​◇
コトタマ隠没後、人類最初のコトタマ自覚者

【 著 書 】

言霊             1987年(S62.10.20) 

古事記と言霊         1995年(H7.5.25)

コトタマ学入門        1999年(H12.2.23)

コトタマ学会報集成書上巻   2007年(H19)

コトタマ学会報集成書下巻   2007年(H19)

bottom of page