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コトタマ
ー 宇宙・生命より ー
人の心によって明らかになる
宇宙や心のしくみ.そして人類の歩み
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「言霊学を学ぶにはどうすればよいのですか」とよく質問される。
そこで仏教の坐禅を例に引いて説明することがあります。
座禅に入るには先ず禅とは何か、空とは、無とは何かを禅の教科書によって知ることから始まります。それで坐禅の意義を知ったら、後はひたすら坐って自らの心を見つめる事に尽きます。空とは空々模々たる心の宇宙のことであり、森羅万象はすべて空より発現し、終わればまたそこに帰って行きます。
空は常に此処にあります。殊更に他に求めれば一生をかけても空は眼前しません。常在である空を求めるということは、空を見えなくさせている自らの心の色眼鏡をはずす行為であります。禅でいう「無」とはその色眼鏡を「本来の我ではない」と否定する行為のことであります。
言霊学を学ぶには、先ず言霊学の教科書を読んで、人の精神生命を構成している言霊母音、父韻、親音、子音等の意味・内容、次にそれら五十音言霊の整理・操作の方法、最後に五十音言霊の操作・活用による世界文明創造の原理である僕載の行法とその結論の三貴子誕生までの心の経緯を理論的に理解することであります。
その作業を終えたら、その作業によって得られた言霊に関する知識を一時脇に片付けて、後はひたすら自らの心とその動きを見つめて行く。自らの本来の眼、赤ちゃんの眼、宇宙そのものの眼で自らの心を見、その心の動きの経路と結果をあるがままに見る(実相)ことであります。言霊の教科書に述べられている母音・父韻・親音・子音の内容とその動きがすべて真実であり、一つの矛盾もないことを発見するでありましょう。
人は言霊によって生きています。否、言霊の動きが生きるという事なのです。だから人が生きることの内容として、曇りのない眼でそのありのままの姿を見て行くこと以外に言霊を学び自覚する方法は有り得ません。推理も想像も概念的思考も、また心霊的霊眼も用をなしません。それはみな「見ようとする眼」であるからです。見ようとする眼で見ることを「屋上屋を架す」と言います。本来ある家の上に、勝手に自分の幻想の家を建てようとするに等しいのです。
言霊とは人の心の宇宙の究極の構成要素であります。赤ちゃんの眼、宇宙そのものの眼で見て、宇宙の心でそれを活用するのでなければ言霊学をマスターすることにはなりません。
「島田正路氏より」